禅について。マインドフルネスとはちがう?「禅学入門」(鈴木大拙)から

こんにちは!

今回は、禅についてのおはなしです。

禅とは何か?

むずかしいようでかんたん。

かんたんなようでむずかしい。

そういったものになるでしょうか。

鈴木大拙先生の著書「禅学入門」から、 「禅」についてのおはなしをしていきたいと思います。

禅とは

「禅」の語源は、サンスクリット語で「ディヤーナ」といい、これを音訳して「禅那」と漢訳し、「那」が脱落して「禅」が独立したものです。

「禅那(Dhyana)」には、「知覚する」、「反省する」、「心を集中する」などの意味があります。

禅とは、「知覚」するものであり、「論理」とは正反対のものになります。

論理とは「ある」「ない」などの二元的思考で成り立ちますが、禅にはそういった二元性のものがありません。

すべての拘りをなくし、すべてをありのままに見るというものです。

禅は、全宇宙をありのままに受け入れます。

そして、全宇宙を「悟る」ことが禅となります。

むずかしいですね。

わたしは「禅」を以下のように解釈しました。

「すべてのこだわりをなくし、すべてをありのままを受け入れる」ということが「悟り」へいたる。

それが禅であると。

禅とマインドフルネス

禅から派生したものに「マインドフルネス」というものがあります。

禅とマインドフルネスのちがいは、悟りがあるか、悟りがないかです。

悟りにいたるためのものが「禅」です。

「マインドフルネス」には、「悟り」にいたるという概念がありません。

よって、「禅」と「マインドフルネス」には、その方向性に根本的なちがいがあると思います。

この本には、「禅には想を集中すべき対象がない」と書かれています。

「マインドフルネス」は、「いまここ」だけに集中しながら行います。

「いまここ」にこだわり続けるとすると、「いまここ」という集中すべき対象が存在してしまうということになるでしょう。

そこには根本的なちがいがあるように思えます。

禅はひとつ

禅は二元論では考えません。

本にはこう書かれています。

「論理は思考の二元的様式を具えたもの」

「禅は論理の正反対」

二元的なものには、「善悪・生死・物心、空と不空、静寂と静寂など」が書かれています。

生と死も二元的なものと書かれています。

つまり禅には、生と死もないということになります。

すべてはひとつなのです。

本にはこう書かれています。

「禅は心の全部」

「悟りは身心の区別的な考えのまったくなくなったところに達することにある」

禅と神

禅に神はいません。

神が「いる・いない」とは、二元論ということになります。

禅は二元論ではなく、全部ひとつと考えるので、そこに神はいないのです。

本にはこう書かれています。

「悟りは神をみることではない」

「禅は神からの独立さえも要望する」

さらにこうも書かれています。

「仏陀のいるところにとどまるなかれ、 仏陀のおらざるところを速やかに去れ」

仏陀にも拘るなかれと。

禅は日常にある

禅は、すべてをありのままに見ようとします。

その真理は、目の前に展開されていると言われています。

「禅は日々の心にある」

「鳥が空を飛び、魚が水をおよぐ」

そういうものであるといいます。

「最も平凡な、そして最も平穏な、普通人の生活裡に、禅は現れている」

と書かれています。

息をするのも、掃除をするのも、お茶を汲むのも、すべてに禅があると書かれています。

知識や言葉は人間の限界

人間の知識や言葉というものは、それが人間の限界になります。

本には「禅は全宇宙を超越するもの」と書かれています。

人間は宇宙の一部です。

禅は、その宇宙を超越したものなので、とうぜん人間を超越しているものです。

人間の知識や言葉では、人間を、宇宙を、超越することはできないのです。

禅は言葉にできない

言葉や知識は人間の限界です。

宇宙を超越した、「真理」や「悟り」は言葉にできないものです。

この本には以下のように書かれています。

「真の道は文字言詮の及ぶところでない、元来悟りへの道として求め得るようなものは何もないのである、元来が無所得である。何かあると言うなら、それは本当のものではない」

「神や、仏陀や、霊魂や、無限や、一や、その他こうした言葉は何ら真実の価値はない。これらはただの言葉であり、観念であって、こうしたものは禅の真理に達するには何の役にも立たず、却ってしばしば誤謬曲解に陥るものである」

「禅には文字で説くべきものなどはない。聖教として珍重すべきものはない」

「我々は余りに言葉と論理の奴隷である」

「真理に徹底し得ないのは、余りに論理的解釈に執着するから」

「言葉は表象で、心そのものではない」

「心は無形であり、無象である。真理は言葉から自由なるものでも、依存するものでもない」

「言葉は言葉であってそれ以上の何ものでもない」

悟る

そしてここに悟りのヒントとなることが書かれています。

「言葉の尽きた時、突如として全実在の上に黎明が来た」

「わずか一瞬の間にすべての事態が一変して禅が得られる」

悟りはじわじわ来るのではなく、ある日いきなり来ると言われています。

考えるな感じろ

ブルース・リーをごぞんじですか?

師の名言に「考えるな感じろ」というものがあります。

禅の境地「悟り」というのはまさにそれであると思います。

この本ではこのように書かれています。

「二元主義の法則に従って、論理的に考える習慣を持っているならば、それを捨て去ることである」

「禅を知的見地で説明をすることは不可能である。それを哲学的に取り扱うことは正しくない。禅は仲介物を嫌う。知的の仲介をさえ嫌う」

「悟りは知的または論理的理解に対する、直覚的洞察と定義することが出來よう」

「吾々が智性に縛られている間は、真の神に会うことは出来ない」

「禅は何物をも教えない」

禅はむずかしい?

ここまで鈴木大拙先生の「禅学入門」から、禅についてのおはなしをしてきました。

禅はむずかしいですか?

それともなにか気づきがありましたか?

「悟り」へのみちは、頭で考えてはいけないようです。

感覚によって成されるもののようです。

そうすることで、「全宇宙とその内外のすべてが理解される」ということです。

禅はこころの健康

さいごに「禅」は何のためかというと、このように書かれています。

「禅が何物かであるとするなら、それは健全な心の状態そのものにほかならぬのである」

禅は、こころの健康のためになるということです。

日常生活において、この世のすべてを感覚で感じてみましょう。

それが「禅」であり「悟り」への道となるようです。

今回はここまでで!

最後までお読みいただきありがとうございます!

みなさまに幸せが届きますように!

感謝!

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▷参考書籍

禅学入門」鈴木大拙