祈りはたいせつ。宗教ではなく信仰として。こころの健康のために

こんにちは!

今回は、祈りと健康についてのおはなしです。

「祈り」といえば宗教をイメージされるかも知れませんが、このおはなしでの「祈り」は個人の信仰としてのものです。

信仰するものは、神さまでも、海でも山でも何でも良いと思っています。

人間より偉大なもの、人間を超越したものに対して祈ります。

人が自力で解決できないできない事態になったときに、この「祈り」があればこころが救われることがあるでしょう。

そんな、信仰として、こころの健康としての「祈り」のおはなしです。

宗教と信仰

このおはなしでの「祈り」は、宗教としてではなく信仰としての「祈り」です。

「祈り」といえばスピリチュアル(霊的)な領域に入ってきます。

おそらく、宗教と結びつけて考えられる方が多いのではないかと思います。

信仰とは個人がおこなうものと考えます。

信仰をするものが集まり、団体となってルールができれば宗教となります。

信仰としての「祈り」とは、団体のルールにしばられずに個人で自由に「祈る」ことができるものです。

ただ”宗教”ということばにはもっと深い意味がありますので、興味のある方は調べてみてください。

なぜ祈るのか

「祈り」に対してよく聞かれるのは次のようなことではないでしょうか。

「祈ったからと言って、どうなるものではない」

「そんなの非科学的だ」

確かにそのとおりでしょう。

ではそれでもなぜ祈るのか?

それは、人間ではどうにも解決できないことがあるからです。

その最たるものが「死」になります。

人生の中で一度は「やることはやったけど、もうだめだ」、というような経験をされているのではないでしょうか?

やることはやっても、それでも解決しないならば…

それでもまだできることはあります。

それが「祈り」です。

結果はどうなるかはわかりません。

やることをやっているのなら、それでもできることとして、「祈り」に時間を使っても損はないと思います。

何に祈ればよいのか

何に祈ればよいかは、なんでもよいと思います。

自分の力ではどうにもできないことなので、自分よりも超越した存在の方が良いでしょう。

わたしが祈るときは、人間を超越したもの、見えないもの、想像できないもの、イメージのない空間に祈ります。

人間を超越したものなので、知識では考えないです。

知識は人間レベルのものなのです。

ただ言葉にするときは、わかりやすくするため「神さま」と呼んでます。

手塚治虫さんの「火の鳥」はそういう存在ですね。

火の鳥は人智を超えた生命体。

人間には理解できないので、火の鳥のかたちをしてあらわれているそうです。

祈ることでどうなるのか

祈ることによる効果は人それぞれでしょう。

わたしは今までの人生で、なんどかもうだめだと思うようなことがありました。

そのたびに強く祈りました。

そうすることで、いずれのときもなにも状況は変わってないのに、こころは楽になっていました。

「なんとかなる」こう思えるようになりました。

絶望的な状況にもかかわらず、こころがとても軽くなっていました。

それがいちばんの救いでした。

「なんとかなる」と楽観視できるようになり、こころが軽くなったことで、生きる道を選択できました。

祈ってもどうにもならないこともある

祈ってもどうにもならないことがあります。

それを仕方ないと思えるかがとてもたいせつです。

このことについては後述いたします。

祈りに依存してしまうと、それがかなわないときに、こころが燃え尽きてしまったりするでしょう。

また祈りに依存すると、自力でできることをしなくなってしまいます。

祈ったあとの結果は受け入れる。という気持ちを持って祈るということがたいせつになります。

どのように祈ればいいのか

祈りの内容が具体的すぎる場合は、かなわないことが多いようです。

八木龍平さんの著書「成功している人は、なぜ神社に行くのか?」には、祈りの内容にすき間を作ることがたいせつと書かれています。

具体的すぎる内容とは、「彼女をください」とか「百万円ください」とか「この上司をどこかへ飛ばしてください」などです。

わたしはこのように祈りをします。

「なんとかしてください」

「良いようにしてくだい」

具体的なことを祈ることもありますが、かならずさいごに「内容はお任せします」的な祈りをします。

祈りはこころの健康

わたしは40歳を越えて専門学校に入学しました。

その2年くらい前から、ときおり、「学校に行きたいです」と祈っていました。

それまでは、学のない自分に嫌気がさして悶々とする毎日で、こころは健康ではありませんでした。

それが祈ることによって、学校へ行ってるイメージが強くなり、いつもわくわくする気持ちになっていました。

悶々とした毎日から、わくわくする毎日へ変わっていきました。

こころはどんどん健康になっていきました。

学校に行けたのは、祈りによる引き寄せだけでなく、こころが健康になったからだと思います。

こころが健康になって、学校に行く方向で行動し続けることができたからだと思います。

つまり「祈り」というものは、なによりもこころの健康のためになるものと思っています。

こころが健康になると身体も健康になる

「祈り」は医療の世界でも使われています。

末期がんや難病など、自力ではどうしようもできない患者さんの救いのために「祈り」をもちいます。

そうすることで、こころが救われるのです。

身体は病であっても、こころ(精神)は健康になれる。

それが「祈り」です。

そしてこころが健康になることによって、がんの自然退縮などがおこるというのは現実にあることです。

感謝と受け入れ

前述しましたが、祈ったからといって、すべてその通りになるわけではないです。

どうしようもないこともある。

それを「受け入れる」という気持ちがないと、「祈り」はあだとなるでしょう。

「祈ったのに、なにもならないやんか」といった気持になるでしょう。

それはかえってこころの健康を害することになるでしょう。

もうひとつたいせつなものがあります。

それは、なにごとにも「感謝」するという気持ちです。

どうしようもできないことに「感謝」できるかということもたいせつです。

あらゆるできごとに「感謝」して、はじめて「受け入れ」ができます。

自力でできることはすべて尽くしたうえで、その結果には「感謝」をして「受け入れる」。

そうすることで、そのできごとが自分のためにプラスのできごとに転じます。

なにか不幸なできごとがあっても、それを乗り越えるだけでなくプラスの力に転じていく。

最近ではこういった考え方は、”レジリエンス”や”PTG(Post Traumatic Growth 外傷後成長)”ということばになって研究されています。

なかなかきびしいかも知れませんが、「祈り」のために、こころの健康のために「受け入れ」と「感謝」がたいせつだということです。

まずは祈る

「受け入れ」と「感謝」がたいせつと書きましたが、なかなかたいへんだと思います。

死や病気にも感謝しようと言うことになりますから。

まずは感謝と受け入れは忘れて、「祈り」だけを試すのがいいでしょう。

「祈り」はお金はかからないですから損はしないです。

毎日寝る前にでも、今の自分や、状況がどうなっていきたいのかを祈ります。

人間を超越したなにかがなんとかしてくれるかもしれません。

なんとかなると思うことができれば、希望がめばえ、気力が湧いてきます。

なんとかならなかったときは、そのときは仕方がありません。

やることはやったのだから仕方ない!

さいごに一休禅師のことばです。

「心配するな、大丈夫、なんとかなる」

今回はここまでで!

最後までお読みいただきありがとうございます!

みなさまに幸せが届きますように!

感謝!

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