エビデンスによる正義

エビデンスによる正義

コロナ感染症が拡大し続けているとテレビや新聞のニュースが騒ぎ続けている。
国民のほとんどがマスクをして、半数以上がワクチンを打っているにもかかわらず、PCR検査による陽性者数では世界の頂点を走っている。
発症した場合の症状はというと、ほとんどが軽症ですむようになり弱毒化しているのは明らかだ。
しかしマスコミによるとそのような弱毒化ウィルスに対しても、相変わらず未知のウィルスとして怖がらなくてはいけないらしい。
そして医学の専門家と言われる人たちからは、そのウィルスを怖がらなくてはいけないためのエビデンスが無限に湧いて出てきている。
社会では以前と変わらず厳しい感染対策を求められ続けており、その背景には正当性をうたうエビデンスが用意されている。
そしてこのエビデンスにより、社会に住まう人たちに感染対策という過度の我慢を強い続けられているように感じる。

エビデンスという言葉には”証拠”や”根拠”といった意味がある。
医学の世界でエビデンスは医学的根拠などと呼ばれている。
この新型コロナ感染症対策においてマスコミや医学の専門家、厚生労働省などがエビデンスを連呼するようになって、この言葉が広く知られるようになったと思う。

私はこのエビデンスという言葉が好きになれない。
そしてなんでもかんでもエビデンスを振りかざす人には嫌悪を感じたりする。
ただじつは、私自身このエビデンスという言葉をずいぶんと使ってきた。
私は医療の資格を取るためにエビデンスというもの対して教育を受けてきた。
その資格を使って職に就き、エビデンスをもとにして仕事をしていた。
そして他の職員に対しては「それについてのエビデンスは?」などという言葉を好んでよく使っていた。なぜなら、エビデンスは便利だったからだ。

エビデンスにはものごとをすべて数値などのデータで表していて、客観的にその正当性が述べられている。
主観的な自分の思いや気持ちなどは、バイアス(片寄り)として介入ができないようにされてある。
医療の世界では何か問題があったり議論になったりしたときに、このエビデンスさえあれば負けることはない。
資格教育を受けているときにも、「自分の身を守るためにもエビデンスを用意しておくのだ」と教わった。
医療の世界においてのエビデンスは、その正当性が担保され自分の責任を回避するための便利ツールだと私は感じている。

しかし今では、そのエビデンスという言葉を使わなくなった。
そのきっかけは、私が高齢者介護施設で勤めていたときのあるできごとだった。
(介護施設では、施設を利用している高齢者のことを利用者と呼ぶ)
施設に膝に痛みのある利用者がいた。
ある日のこと私はその利用者の膝の痛みをケアしようと思った。
利用者にその旨を伝えたところ、「いまはいらない」という返事が返ってきた。
私は「せっかくなのに」などと思って、膝の痛みが良くなるはずのエビデンスを利用者に伝えた。
利用者は「今日はいいわ」と、それでも気が乗らないようだが、私はそのまま無理に膝を診た。
ケアした後に利用者は「痛みが良くなった気がすると」と言っていたが、私は「エビデンス通りなのだから、そら良くなるはずだ」と思いながらその場を離れた。
次の日の朝、その利用者は亡くなった。
朝食中に喉を詰まらせてそのまま間に合わなかったのである。
介護施設では利用者が亡くなることは当たり前のできごとだ。
利用者が亡くなっても淡々と仕事をこなし、淡々と時は過ぎていく。
人が亡くなるという感覚に慣れていたはずだが、今回のことはなにか自分が根本的に間違っているというような感覚になり、無性に後味の悪さを感じた。
この利用者の人生の最後にかけた言葉は何だったのか?
人生を送る言葉は何だったのか?
その言葉が、他人の言葉である「エビデンス」だったということに私はなさけなさを感じた。

私はエビデンスという言葉が好きでない。
なぜならそれらはすべて他人の言葉だからだ。
研究成果だとか、知識の集大成だとか、人間の叡智が詰まっていると言われたりするが、しょせんは他人の言葉であることに違いはない。
ものごとを数値であらわしているにすぎず、そこに自分の気持ちはない。
つまり他人の言葉であって、自分の心は一切そこにはない。
自分の心をそこに置かないためのツール、そして何かあったときの責任を回避できるツール、それがエビデンスだ。

私はエビデンス自体が良くないと言っているのではない。
やはり研究の成果であり、知識の集大成がつまっているものである。
私はなんでも正義にできるようなエビデンスを盾のように使うことに嫌悪を感じるのだ。
どこかの勢力が社会全体を管理しやすいように、心というバイアスを排してエビデンスありきの議論に持ち込もうとしているのではないかとも感じる。
どんな議論であってもそこには人間の心が存在する。
その心というものを封じ込めた社会にしようとしているのではないかと思う。
いまの社会はそのエビデンスで縛られているように感じる。

医学的な社会問題であってもそこにはかならず人間の心がある。
人と人が接するその間には、心と心のつながりがある。
エビデンスを盾に使う人間は、その”心”にさえもエビデンスを求めてくるかも知れない。
心にはエビデンスはない。
そして人間はすべて心を持っている。
エビデンスというものをもう一度見つめ直す必要があるのではないかと思う。

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