自分のためが誰かのために
自分のためが誰かのために
あなたのためを思ってとか、誰かのためになどと言う言葉はよく聞かれると思う。
誰が聞いても正しいこの言葉に押し付けがましさを感じるのは私だけだろうか。
人間にはエゴというものがある。我欲と書かれるもので人間の欲のことである。
このエゴがあるからこそ人間たちは発展してきたと思う。
自分のしたいことだからこそ、その分野を追求し社会が発展してきたのだと思う。
しかしながらこのエゴがある故に、自分だけが得をして他のものに損をさせるような行動を生み出しているのではないかと思う。
あなたのためや誰かのためと言った行動にも、実は自分のためにがあって、それが気づかずにじみ出ているために押し付けがましさを感じさせるのかも知れない。
このエゴのやっかいなところは、自分自身はエゴに気がつかないことにある。
エゴは自分自身である。
例えば、ものを眼で見るときに、自分の眼球がここにあるなどとは意識しないだろう。エゴも眼球と同じで自分自身であるから気づかないのだと思う。
このエゴに気づくためにはどうすれば良いのだろうか?
仏教には悟りというものがある。
悟りには小さなものから大きなものまでいろいろあるらしい。
じつは自分でも気づかず小さな悟りを体験していることはよくあるらしい。
悟り体験について人の話を聞くと、悟りに達したときは自分自身を俯瞰して観れるような感じになると言う。
それぞれの人がみな同じことを言うからおそらく悟りを開くと本当にそうなるらしい。
自分を俯瞰して観れると言うことは、自分自身つまりエゴから脱却できると言うことだと思う。
伝教大師最澄の言葉に、
「己を忘れ他を利するは慈悲の極みなり」
と言うものがあると聞いた。
己を忘れて、あなたのためを思って、誰かのために、と言うことをすることが慈悲の極みだと言うことだ。
己とは自分自身であるからエゴも含めている。
仏教僧たちは、少しでも悟りを開いてエゴを忘れるように、現在に至るまで修行を繰り返してきている。
我々は人間であるから、エゴがあることは仕方のないことだろう。
私としての落とし所は、エゴと言うものに気づき、自分のためにすることが誰かのためになっているくらいが正直でちょうど良いのじゃないかと思っている。
しかし己を忘れるほどの慈悲の極みに達してみたいとも思う。
まあじつはこの文章を書いていること自体がエゴのあらわれだったりするのでどうしようもない。